山村文化を美しく滅ぼすか、守るために戦うか(中原洪二郎)
- 2009/08/06
- 中原洪二郎
今年も学生を連れて、奈良県吉野郡野迫川村の夏のお祭り「維盛大祭」に参加してきました。今年は8名もの学生が参加して、大変にぎやかなことになりました。
野迫川村は人口が600人ほど、高齢化率は45%以上という過疎の村です。奈良県の南西の県境に位置しており、歴史的には高野山との関係が深い場所。林業が中心の村でしたが、ご存じの通り、衰退していく日本の林業の、大きな流れの中で、野迫川の林業は大変に厳しい状況に置かれています。
現在は、凍り豆腐(高野豆腐)、アマゴ、しいたけ、わさび、ほうれんそうなどを主要な産品とした活性化を図っているのですが、どれも大変に高品質です。ぜひお試しいただきたいと思います。
さて、そんな過疎の村の夏祭りというと、村人ののど自慢や演芸大会、小さな露天がぽつぽつと並び、派手なことも盛り上がることもあまりなく、こぢんまりしたものと思われるかも知れませんが、野迫川の夏祭りはひと味違います。
まずは餅まき。ことしは残念ながら降雨のため、餅まきは中止になってしまいましたが、例年ですとこれが実にオモシロイ。まくほうも拾うほうも必死です。のんびりとまく、というよりは、人に向かって投げつけるという感じ。前日についたお餅ですから、かちかちというわけではないのですが、当たったらそれなりに痛いのではないかと。
ステージにはいろいろなパフォーマーのみなさんが上がるのですが、毎年、シンガーソングライターの河島翔馬さんとそのファミリーが歌を聴かせてくれます。翔馬さんはあの河島英伍さんの息子さんです。このステージがとても盛り上がります。今年は野迫川村の歌が入ったCDを無料で参加者に(本学の学生が)配布しましたね。
お祭り会場には地元の人たちがいろいろな露天を出すのですが、その中に一風変わった露天があります。「スロヴァキア共和国」という看板のかかったその露天には、今年は新しく着任されたスロヴァキア大使の姿がありました。そう、一国の大使が露天の店先で、大使館員と一緒にスロヴァキアの郷土料理を来場者に振る舞っているのです。野迫川「村」とスロヴァキア共和「国」の交流はひょんなことから始まって、現在は中学生が訪問したり、こうやってお祭りに露天を出したりと、いろいろ楽しいことになっています。
そして打ち上げ花火。山の中のことですので、広い平地はありません。打ち上げ場所はお祭り会場のすぐ側。しかも打ち上げ場所が会場よりも低い場所にあるので、花火の炸裂高度が通常より低くなります。結果、ほぼ直上ではじける花火の迫力と美しさといったらありません。しだれ柳のような大きな花火だと、手を伸ばせば火の粉に触れることが出来るような錯覚さえ覚える大迫力です。普通の花火が映画館なら、野迫川の花火はIMAXシアターといったところでしょうか。
3年ほど前、私が野迫川村に出入りするようになってしばらくの間、私はこの村を「いかに美しく滅ぼすか」という観点から見ていました。日本全国で多くの山村集落が滅びの危機に直面しています。人口が回復しない以上、それは回避することができません。しかし、我が国の政策は「活性化」を言うばかりで具体的な方略を見いだすことが出来ず、滅びの時は刻一刻と迫ってきています。
もし、無くなる以外に村の将来が無いのであれば、いかに幸せに、美しくその日を迎えるか、私は最初、そんな風に考えていました。
しかし、野迫川村の人に触れ、その文化を知り、お祭りの盛り上がりを見るにつけて、私の考えは大きく変わっていきました。
「文化」というものは、「単相」ではあまり意味がない、と思います。文化とは、問題解決のための方略の集大成です。「食べる」という問題を解決するために、「料理」という文化が発達します。「社会の安寧」という問題を解決するために、「大仏」が建立され、それが「文化財」として引き継がれていきます。しかしその「問題」の内容は時間によって変化していきますし、解決法もまたしかりです。「手紙」が「メール」に部分的に置き換わったりもします。
文化を「問題解決方略の集大成」と考えるのであれば、実はある文化の内部に存在する多様性こそが、その文化の「力」となります。ある解決方略が問題に対処しきれなくなったとき、新たな方略がそれに取って代わることが必要ですが、取って代わることのできる方略がなければ、その問題に対応することは出来なくなってしまいます。言い換えれば、ここ数十年、日本社会が抱えている様々な問題に対処してきた方略は「都市文化」として体系化されるものかもしれませんが、それが対処法としてベストとは言えない状況になったとき、実際にはすでにそう言えない状況だと思いますが、「農村文化」が部分的あるいは全体的に、対処法として適切な「文化」となる可能性があるのです。
つまり、「滅び行く山村文化」を「都市生活者」として「関係ないもの」と捉えることはできない、ということです。滅び行く山村文化を見過ごすことは、日本文化を滅ぼすことに手を貸しているのと同じ、さらにいえば、変化する様々な問題に対処する能力が低下していく、ということになるのではないでしょうか。私はこれを「文化的安全保障」と呼んでいるのですが、山村や農村に息づく文化を守ることは、日本文化の多様性を守ることであり、それは単に、滅びの危機に直面している市町村の問題に留まるのではなく、我が国が国として「戦略的に」対応することが不可欠なのです。
山村文化を美しく滅ぼすのではなく、泥臭く戦って守る。山村に暮らすか、都市に暮らすかの違いに関係なく、我々は守るために戦わなければいけないぎりぎりのところに来ているのではないでしょうか。どうすれば農村に、山村に、再び人々を根付かせることができるのか。それには「働く場所」の存在が不可欠です。別に、農村や山村を都市にしようというわけではありません。それでは意味がありません。農村が農村として、山村が山村として、きちんと財政的基盤を維持できるだけの産業と、それを支えることの出来る人口がいれば十分なのです。そしてそれを可能にするためには、都市生活者が消費する「モノ」に対して選択的である必要があります。自分の生活を守るためには、消費財は安い方がいい。確かにその通りです。しかし、それでも農村や山村を守るために多少高くてもそれを選択することが、とりあえず都市生活者に今すぐ出来る「戦い」かも知れません。そしてそういった小さな「戦い」がきちんと成果を上げるためには、政府が明確に道筋を示す必要があります。ある程度は「自由貿易」という名の呪いと戦う必要もあるでしょう。
それでもそれはやらないと。今の私はそんな風に考えています。

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